Matheusとの出会い
SugawaraTakumaShare
今回販売開始するパーリンカはとても思い入れがある。
松沢にとってではなく菅原にとってだ。
そしてそれは間違いなく松沢にとっても、強い思い入れがある。
Bar Pálinkaの、合同会社oooooの、onewの、全ての原点と言っても過言ではない。どういうことかな。どういうことだろうね。
今回のメインの執筆は菅原となる。
今回は松沢から筆を借りる。
このたびonewで販売を開始するMatheusは、僕が人生で初めて買ったパーリンカだ。2014年のクリスマス、ブダペストの空港で手に取った1本。そこから12年かけて、ようやく日本に連れてくることができた。少し長くなるが、その1本にたどり着くまでの話をさせてほしい。
僕はアメリカで生まれ、小中学校の期間をイギリスで過ごした。一時帰国は数年に一度で、物心がついた頃には日本は憧れの地になっていた。
初めてロンドンのヒースロー空港に降り立った時に、先に生活環境を整えてくれていた父が迎えに来てくれた事を今でもはっきりと覚えている。NYの同時多発テロの影響で父以外の家族は引っ越しを数ヶ月遅らせたのだ。
JJ Townの食卓
僕はロンドン北部のGolders Greenという場所に住んでいた。そこはJJ Townと呼ばれ、JapaneseとJewishが多く住む街だった。街には日本食料品店やKosherのベーカリーやスーパーマーケットが並んでいた。
ハレディの人々も多く、当時小学校1年生の自分にとって、超正統派の彼らは見慣れない存在に映った。見るもの、食べるもの、感じるもの全てが日本のそれとは違いすぎていて、不安だった事を今でも覚えている。
Embed from Getty Images
彼らは彼らの生活様式を今でも守っているが、社会はそれを寛容に受け入れていたと思う。
ロンドンは国際的な都市だった。インド人でもヒンドゥー教やシク教の人々、香港人やアラブ人、本当に多くの人々がそれぞれのコミュニティで生活をしていた。街ですれ違うことはあっても彼らと交わることはあまり無かった。
それ故、彼らの食べるものや文化に興味が湧くのは時間の問題だった。週末はよく家族と、Indian, Chinese, Italianなどで食事を取っていた(Pubが少なかったのはあしからず)。
異国の文化に触れる機会がとても多く、旅行先でも絶対に「ご当地の何か」を試したいという感覚が身についた。
ヨーロッパでの体験
ヨーロッパは全てが近い。RyanairやeasyJetを使えば新幹線より遥かに安く別の国へ行けた。9年間も住んでいたため、多くの都市や地域に両親が連れて行ってくれた。
世界遺産の図鑑などでずっと眺めていた、たくさんの史跡を実際に訪れることが出来たのは、大変な幸運だったと思う。
首都や大都市だけでなく、地方都市も旅行し、その国のあらゆるローカルな文化を経験させてもらった。当時はスマホが無く、Nokia 3100の全盛期だったので父の知人やWaterstones(英国最大の本屋チェーン)で買ったガイドブックを頼りに、父がレンタカーで連れ回ってくれた。
数え切れない記憶が今でも鮮明に思い出せる。
ロワールの古城巡りの道中で食べたビストロで、隣のアメリカ人観光客がデザートにFromageを指差し、チーズの盛り合わせが出てきて困っていた。Fromageがチーズであることを知った。フランス人がデザートにチーズを食べることも知った。
ヴェニスでは、僕だけが混んでた店でリゾットを頼んでしまったばっかりに提供がものすごく遅れてしまった。生米から炊く事をその時知った。
当時はその場で検索することが出来ないので、ウェイターに聞くか(英語が伝わるとは限らないが)、黙って「何か」を食べるか、行き当たりばったりな旅になりやすかった。それはそれで思いもよらない「記憶に残る発見」の喜びがあったし、雰囲気の良い店や美味しい料理を見分ける嗅覚のようなものが身についた。
特にポンペイで見たテルモポリウム(Thermopolium)にはカウンターがあり、現代の飲食店のそれとほとんど変わらない姿に衝撃を覚えた。2000年前からあるなら、2000年後も飲食店は姿形を変えながらも、社会に残り続けるだろう。
それ以来、史跡を訪れるたびに建物よりも「ここで人は何をしていたのだろう」と想像するようになり、その想像が網の目のように好奇心を広げていった。
※写真はAdobe Stock
ヴォルヴィックのキャップ
その好奇心を継続することになったのはスウェーデンへの大学留学であった。
この北欧国家への留学を決めた理由は、北欧地域に行ったことが無かった事、日本の大学では漕艇部(ボート部)に所属していたので、その活動を維持できる環境がある事、当時興味のあったデザインに関する勉強が出来る事を満たせる場所だったからだ。
留学先の選択肢は世界中にあったし、米国に十数年ぶりに戻ることも出来たが、やはり引力は欧州にあった。
留学初日のオリエンテーションでたまたま隣にいた、多分東欧から来た留学生が講座を聞きながら、ヴォルヴィックのペットボトルで透明な液体をちびちび飲んでいた。しかし漂ってくる香りが間違いなく酒であり、たまらず何かを聞いた。そしたら彼はキャップにそれを注ぎ僕に手渡した。
そもそも何か全くわかってなかった僕は、強烈なアルコールの刺激と一気に広がる香りに圧倒され大いに咳込んだ。
今思えば、それは彼の祖父か父が作ったホームメイドラキヤだったのだろう。
どこの国の出身か聞いたがスロヴァキアか、セルビアか、もう忘れてしまった。
というかなんであの時酒を飲んでたんだ?
彼が飲んでいたお酒を軽く検索してみた。ヨーロッパ広域で生産されており、各地域でそれぞれの名称があり、掴みどころの無いお酒であり、ワインやビール、多少のウイスキーくらいしか知らなかった当時の自分にとって、結局よくわからないお酒だったことは記憶している。
しかし、僕にとっては少しエキゾチックだった中東欧に興味をもったきっかけでもあり、ハンガリー、チェコ、ドイツ、その他の国々を旅することになった。
2014年、ブダペストのクリスマス
ハンガリーは2014年のクリスマスにはじめて訪れた。スウェーデンのMalmöからWizz Airで往復3000円くらいであり、空港までのバスの値段の方が高かったことを記憶している。
ブダペストの繁華街ゴジドゥ(Gozsdu Udvar)で夕食を食べた際に、ショプロニビールを飲んだ。これまでに飲食店ではスピリッツは頼まなかったが、メニューの隅に知らないお酒がリストされていた。気の良いウェイターに聞いてハンガリーのNational spiritであることを聞いて、オススメのアプリコット(Barack)を頼んだ。
一口飲んだら、謎の留学生がヴォルヴィックのキャップでくれたお酒と同種のものだと直感した。
あの時は「強い酒」という印象しか無かったが、味わい方をレクチャーされ、お酒と向き合って飲んでみると、アプリコットの香りがグラスからそのまま立ち上がってきて、度数の高さを忘れるほどだったことを記憶している。
メニューを見返して、色々なフルーツがあること、「Pálinka(パリンカ)」という酒であることが分かった。
免税店で出会ったMatheus
ハンガリーは物価がスウェーデンとは比較にならないほど安く(パブで飲むパイントは5倍超の差があった)、素晴らしい国だと噛み締めながら、帰りの空港で大学の寮でのクリスマスパーティー用にいくらかのお酒をお土産で買って帰ろうと思った。
スウェーデンでは度数3.5%を超えるお酒は全て、Systembolaget(システムボラゲット)という国営のリカーショップでしか購入できない。更に値段が学生には気軽に買えないほど高く、スーパーマーケット(ICA)で買える3.5%以下のRTDやライトビールが好まれていた。
ブダペストの空港の免税店でTörleyのスパークリングワイン、ウニクム、謎のスパークリングリキュール(SZIKRA:残念だがこれはもう終売。素晴らしくユニークな商品だった。)、そしてパリンカを購入した。
そのお酒こそが今回輸入することが叶った、マテウス(Matheus)であった。他のフルーツは未開拓であったため、美味しかったアプリコットを購入した。
他にも選択肢はあったが、なぜマテウスを選んだのかはよく覚えていない。ただ、マテウスにはKosher認証の製品もある。Golders Greenのベーカリーで毎週のように見ていたKosherの文字に、無意識に手が伸びたのかもしれない。

写真は寮生活中に友人たちと飲んだお酒たちである。
珍しいお酒を前に、学友たちと「これは何だ?」と盛り上がり、果実の香りが部屋に広がり、片っ端から空になっていったので、半分ほど味わった後、緊急避難した。カクテルという文化を全く知らなかったため、みんな寮のIKEA製のマグカップやタンブラーでストレートで味わった。
UNICUMは残念ながら酔狂な香港人に一気飲みされたため、開封5分で空になった。
この旅をきっかけに、プラハではビール、アブサン、ベヘロフカ、プラム蒸溜酒のショット(後にこれがスリヴォヴィツェであることを知った。R.JELÍNEKだったかは不明。)を楽しんだ。ワルシャワはビールともちろんウォッカ。ハンブルクはビール、イェーガーマイスター(当時イェーガーボムはクラブシーンで大人気のカクテルだった。)とシュナップス。
成人するとヨーロッパはまた別の楽しさがあった。
お酒が如何にヨーロッパの文化と深く結びついているかがよく分かる。
ノートの表紙
思い出として残しておくために、旅の記録を綴っていたノートにボトルのラベルを剥がして貼っていた。記録しておかないと、二度と日本で出会うことは無いだろうと当時は思っていた。
このきっかけを作ってくれたお酒への思い入れの強さから、表紙にはUNICUMとMatheusのラベルを貼った。
もともと僕は、ひとつの専門を掘り下げるより、分野を横断して世界がどうできているのかを知ることに惹かれていた。リベラルアーツの学部で、経済、宗教、歴史、社会と片っ端から学んだが、一際面白かったのがデザインだった。
人の生活や社会を観察し、読み取ったものを自分の手で形にする。その行為に抽象的な憧れがあった。
そう考えると、歴史にも経済にも人の暮らしにも深く根を張っているお酒に惹かれたのは、自然なことだったのかもしれない。
パリンカではなく、パーリンカ
新たな知見を広げて日本に帰国し数カ月がたった時、フランスに留学していた部活の仲間とアブサンを飲みにいくことになった。当時は情報もあまり無かった為、著名な恵比寿の某バーにてアブサンを楽しむことにした。
初めて日本のオーセンティックバーという場所で酒を飲んだ。もちろん学生には少し高級だったため、1杯を噛み締めながら味わった。
その後、Ben Fiddichというところでもアブサンがある事を知り行ってみた。アブサンだけでなく、キナ・クレメンティも頂いた。まだまだ知らないお酒ばかりだということを知った。
卒業後、デザイン会社のnendoで働きながら、久しぶりにBen Fiddichに行ってみると、満席で入れず同ビル2階のBar B&Fを案内された。
席について、店内を見渡すとPálinkaと書かれたパネルがドア上部に飾ってあった。いろんな記憶が蘇り、パリンカが日本でも飲めることを知った。
そして店主に「パーリンカ知ってるんですか!」と話しかけられた。その時、パリンカではなくパーリンカということを知った。そしてその店主こそ松沢だった。
この一言がなければ、パーリンカは自分にとって特別なお酒になることは無かっただろう。
この偶然の再会と、Bar B&Fが織りなす空間の楽しさにすっかりハマってしまった僕は、その後も彼のお酒を飲みに西新宿へ通っていた。
バーがこんなに楽しい場所ということは彼が教えてくれた。
また、ふわっとした知識しかなかったヨーロッパのフルーツの蒸溜酒について体系的に深く教えてくれたのも彼だった。
そこからの話は彼が書いてくれている。
→独立の具体的な話
2000年前のポンペイにもカウンターがあった。人が集まり、酒を飲み、話をする場所は、形を変えながら続いていく。Bar Pálinkaも、そういう場所のひとつでありたいと思っている。
日の当たらない酒を、日本へ
世界のお酒業界の主流から外れながらも、多くの国で何世紀も作られてきたニッチなお酒。
Pálinka、Rakija、Țuică、Kirsch、Horincă、Slivovice、Meruňkovice、Eau-de-vieなど土地や原料の果実でカテゴリー名が変わり、全容が掴めない。
便宜上の「フルーツブランデー」も、EUではブランデーがブドウ原料に限られるため認められず、法的にはFruit Spiritとなる。
逆にアメリカでは果実名+Brandyと表記しないといけない、ねじれた規制(SlivovitzとKirschwasserはBrandy表記がなくても良い)。
とっつきにくい代わりに、一度知ると驚く多様性と生産者・フルーツごとの味わい、奥深さ。
パーリンカの生産者は自社栽培や農家から大量の国産フルーツを仕入れ、昔から変わらない製法で作り続けている。小規模な造り手が大半で、ここ数十年でハンガリーの法整備とともに市場が形成されてきた。その間に多くの蒸溜所が失敗し、市場から消え、新たな造り手が生まれ、多くの商品を生み出し、業界の代謝を促してきた。
今年は渇水が酷かったとのことで、来年のフルーツの収穫高を生産者とともに憂いている。
果実という原料が持つ繊細さが、近年の気候変動の影響を多く受けてしまうことは想像に難くない。
Csalló蒸溜所の畑
2014年にブダペストで飲んだあの1杯も、日本ではほとんど知られていなかった。
造り手を訪ね、話を聞き、その文化ごと日本に持ってくる。そんなチャレンジをやってみようと8年前の僕たちは話に花を咲かせた。
当時二十歳の自分に、「12年後、このパーリンカを日本で売っているよ」と言っても、たぶん信じないだろう。
人や場所の縁が紡いだ思い入れのある品を日本に紹介できることをとても嬉しく思う。
ここで松沢に筆を戻す。
これはBar Pálinka開業物語の前日譚-菅原目線-
そもそも松沢と菅原の出会いはパーリンカがきっかけだった。
学生時代にハンガリーを訪れた菅原が買って飲んだパーリンカ、Matheus。
もし菅原がハンガリーでパーリンカを飲んでいなかったら弊社は、Bar Pálinkaは存在していなかったかもしれない。そんな、原点のパーリンカであるMatheus。
念願叶って、日本で販売開始となる。
そしてこのMatheus蒸溜所の責任者であるバーバラ氏はあのMárton és Lányai蒸溜所の娘さん。出会ったのは2023年の蒸溜所訪問時。あのマールトン蒸溜所だ。2024年の5周年記念オリジナルパーリンカでお世話になった、あの。(うおおおおおお!!って叫びたくなるくらい激アツ展開だと思う)
Márton és Lányai蒸溜所の製品に初めて触れたのは2017年。ハンガリー語が分かる方はお気付きだろう。Lányはハンガリー語で「娘」という意味。バーバラ氏は蒸溜所の名前に、いました。ずっと。ずっと前から出会っていた気分。
今回、Matheusの販売前にハンガリーを訪れバーバラ氏に詳細を伺った。2026年9月末のことだ。3泊5日という例によって弾丸出張。前回は1泊3日だったからかなり余裕があるとも言える。
Matheus蒸溜所ができたのは2010年。会社自体は2008年にあったという。
使用しているフルーツは全て蒸溜所の半径10km圏内にあるローカルのもの。地産地消の考えもあるが、どちらかというと輸送コストによる部分が大きいそうだ。
蒸溜器はドイツのChristian Carl製、単式蒸溜器+多段精留塔(シュナップスやパーリンカなど、フルーツブランデーでよく使われるタイプ)。
2回蒸溜したのち、度数85%〜90%の原酒に少しずつ加水を2週間かけて5%ずつ落としていく。一気に加水をしてしまうと香りが飛んでしまうので時間をかけて加水をするのが重要なようだ。コニャックにもよく見られる手法。

Matheusを創業したのはMáté Csaba(マーテー・チャバ)氏。ブランド名のMatheusはMáté家の名前に由来している。
蒸溜所がある場所には、かつてCsaba氏の曾祖父が営んでいた蒸溜所があったそうだ。2010年の蒸溜所建設は、途絶えていた家族の蒸溜を同じ土地で復活させたものだという。2010年にバーバラ氏の父、マールトン氏が蒸溜所を引き継ぎ、現在に至る。
Csaba氏は熟成パーリンカの先駆けだったという。ハンガリアンオークで最低6ヶ月。熟成させる分だけ在庫を寝かせることになるため、熟成させないパーリンカに比べて資金繰りは厳しくなる。それでもずっと熟成にこだわってきたそうだ。
このCsaba氏の経歴が凄まじいのでぜひ紹介したい。(このブログを執筆しながら再度リサーチを重ねて気付いた新事実に興奮を隠しきれず、直前の文脈を無視してここにねじ込ませていただく)

Ököritófülpösを流れるサモシュ川
商品名:Matheus Pálinka Alma
フルーツ:リンゴ(ジョナサン、ジョナゴールド、ゴールデン、アイデレッド)
容量:500ml
アルコール度数:44%
熟成年数:1年
樽材:桑
販売日時:2026年10月23日金曜日 19:00~
購入リンクはこちら
※商品ページは2026年10月23日19:00より公開いたします。
商品名:Matheus Pálinka Fürtös Meggy
フルーツ:サワーチェリー
容量:500ml
アルコール度数:44%
熟成年数:最低6ヶ月
樽材:桑
販売日時:2026年10月23日金曜日 19:00~
購入リンクはこちら
※商品ページは2026年10月23日19:00より公開いたします。
商品名:Matheus Pálinka Cseresznye
フルーツ:チェリー
容量:500ml
アルコール度数:44%
熟成年数:最低6ヶ月
樽材:桑
販売日時:2026年10月23日金曜日 19:00~
購入リンクはこちら
※商品ページは2026年10月23日19:00より公開いたします。


