Matheusとの出会い

Matheusとの出会い

SugawaraTakuma

今回販売開始するパーリンカはとても思い入れがある。


松沢にとってではなく菅原にとってだ。
そしてそれは間違いなく松沢にとっても、強い思い入れがある。

Bar Pálinkaの、合同会社oooooの、onewの、全ての原点と言っても過言ではない。どういうことかな。どういうことだろうね。


今回のメインの執筆は菅原となる。


今回は松沢から筆を借りる。
このたびonewで販売を開始するMatheusは、僕が人生で初めて買ったパーリンカだ。2014年のクリスマス、ブダペストの空港で手に取った1本。そこから12年かけて、ようやく日本に連れてくることができた。少し長くなるが、その1本にたどり着くまでの話をさせてほしい。
僕はアメリカで生まれ、小中学校の期間をイギリスで過ごした。一時帰国は数年に一度で、物心がついた頃には日本は憧れの地になっていた。
初めてロンドンのヒースロー空港に降り立った時に、先に生活環境を整えてくれていた父が迎えに来てくれた事を今でもはっきりと覚えている。NYの同時多発テロの影響で父以外の家族は引っ越しを数ヶ月遅らせたのだ。


JJ Townの食卓
僕はロンドン北部のGolders Greenという場所に住んでいた。そこはJJ Townと呼ばれ、JapaneseとJewishが多く住む街だった。街には日本食料品店やKosherのベーカリーやスーパーマーケットが並んでいた。
ハレディの人々も多く、当時小学校1年生の自分にとって、超正統派の彼らは見慣れない存在に映った。見るもの、食べるもの、感じるもの全てが日本のそれとは違いすぎていて、不安だった事を今でも覚えている。
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彼らは彼らの生活様式を今でも守っているが、社会はそれを寛容に受け入れていたと思う。
ロンドンは国際的な都市だった。インド人でもヒンドゥー教やシク教の人々、香港人やアラブ人、本当に多くの人々がそれぞれのコミュニティで生活をしていた。街ですれ違うことはあっても彼らと交わることはあまり無かった。
それ故、彼らの食べるものや文化に興味が湧くのは時間の問題だった。週末はよく家族と、Indian, Chinese, Italianなどで食事を取っていた(Pubが少なかったのはあしからず)。
異国の文化に触れる機会がとても多く、旅行先でも絶対に「ご当地の何か」を試したいという感覚が身についた。

ヨーロッパでの体験
ヨーロッパは全てが近い。RyanairやeasyJetを使えば新幹線より遥かに安く別の国へ行けた。9年間も住んでいたため、多くの都市や地域に両親が連れて行ってくれた。
世界遺産の図鑑などでずっと眺めていた、たくさんの史跡を実際に訪れることが出来たのは、大変な幸運だったと思う。

首都や大都市だけでなく、地方都市も旅行し、その国のあらゆるローカルな文化を経験させてもらった。当時はスマホが無く、Nokia 3100の全盛期だったので父の知人やWaterstones(英国最大の本屋チェーン)で買ったガイドブックを頼りに、父がレンタカーで連れ回ってくれた。

数え切れない記憶が今でも鮮明に思い出せる。
ロワールの古城巡りの道中で食べたビストロで、隣のアメリカ人観光客がデザートにFromageを指差し、チーズの盛り合わせが出てきて困っていた。Fromageがチーズであることを知った。フランス人がデザートにチーズを食べることも知った。
ヴェニスでは、僕だけが混んでた店でリゾットを頼んでしまったばっかりに提供がものすごく遅れてしまった。生米から炊く事をその時知った。

当時はその場で検索することが出来ないので、ウェイターに聞くか(英語が伝わるとは限らないが)、黙って「何か」を食べるか、行き当たりばったりな旅になりやすかった。それはそれで思いもよらない「記憶に残る発見」の喜びがあったし、雰囲気の良い店や美味しい料理を見分ける嗅覚のようなものが身についた。
特にポンペイで見たテルモポリウム(Thermopolium)にはカウンターがあり、現代の飲食店のそれとほとんど変わらない姿に衝撃を覚えた。2000年前からあるなら、2000年後も飲食店は姿形を変えながらも、社会に残り続けるだろう。
それ以来、史跡を訪れるたびに建物よりも「ここで人は何をしていたのだろう」と想像するようになり、その想像が網の目のように好奇心を広げていった。

※写真はAdobe Stock

ヴォルヴィックのキャップ
その好奇心を継続することになったのはスウェーデンへの大学留学であった。
この北欧国家への留学を決めた理由は、北欧地域に行ったことが無かった事、日本の大学では漕艇部(ボート部)に所属していたので、その活動を維持できる環境がある事、当時興味のあったデザインに関する勉強が出来る事を満たせる場所だったからだ。
留学先の選択肢は世界中にあったし、米国に十数年ぶりに戻ることも出来たが、やはり引力は欧州にあった。

留学初日のオリエンテーションでたまたま隣にいた、多分東欧から来た留学生が講座を聞きながら、ヴォルヴィックのペットボトルで透明な液体をちびちび飲んでいた。しかし漂ってくる香りが間違いなく酒であり、たまらず何かを聞いた。そしたら彼はキャップにそれを注ぎ僕に手渡した。
そもそも何か全くわかってなかった僕は、強烈なアルコールの刺激と一気に広がる香りに圧倒され大いに咳込んだ。
今思えば、それは彼の祖父か父が作ったホームメイドラキヤだったのだろう。
どこの国の出身か聞いたがスロヴァキアか、セルビアか、もう忘れてしまった。
というかなんであの時酒を飲んでたんだ?
彼が飲んでいたお酒を軽く検索してみた。ヨーロッパ広域で生産されており、各地域でそれぞれの名称があり、掴みどころの無いお酒であり、ワインやビール、多少のウイスキーくらいしか知らなかった当時の自分にとって、結局よくわからないお酒だったことは記憶している。
しかし、僕にとっては少しエキゾチックだった中東欧に興味をもったきっかけでもあり、ハンガリー、チェコ、ドイツ、その他の国々を旅することになった。

2014年、ブダペストのクリスマス
ハンガリーは2014年のクリスマスにはじめて訪れた。スウェーデンのMalmöからWizz Airで往復3000円くらいであり、空港までのバスの値段の方が高かったことを記憶している。
ブダペストの繁華街ゴジドゥ(Gozsdu Udvar)で夕食を食べた際に、ショプロニビールを飲んだ。これまでに飲食店ではスピリッツは頼まなかったが、メニューの隅に知らないお酒がリストされていた。気の良いウェイターに聞いてハンガリーのNational spiritであることを聞いて、オススメのアプリコット(Barack)を頼んだ。

一口飲んだら、謎の留学生がヴォルヴィックのキャップでくれたお酒と同種のものだと直感した。
あの時は「強い酒」という印象しか無かったが、味わい方をレクチャーされ、お酒と向き合って飲んでみると、アプリコットの香りがグラスからそのまま立ち上がってきて、度数の高さを忘れるほどだったことを記憶している。
メニューを見返して、色々なフルーツがあること、「Pálinka(パリンカ)」という酒であることが分かった。

免税店で出会ったMatheus
ハンガリーは物価がスウェーデンとは比較にならないほど安く(パブで飲むパイントは5倍超の差があった)、素晴らしい国だと噛み締めながら、帰りの空港で大学の寮でのクリスマスパーティー用にいくらかのお酒をお土産で買って帰ろうと思った。
スウェーデンでは度数3.5%を超えるお酒は全て、Systembolaget(システムボラゲット)という国営のリカーショップでしか購入できない。更に値段が学生には気軽に買えないほど高く、スーパーマーケット(ICA)で買える3.5%以下のRTDやライトビールが好まれていた。

ブダペストの空港の免税店でTörleyのスパークリングワイン、ウニクム、謎のスパークリングリキュール(SZIKRA:残念だがこれはもう終売。素晴らしくユニークな商品だった。)、そしてパリンカを購入した。
そのお酒こそが今回輸入することが叶った、マテウス(Matheus)であった。他のフルーツは未開拓であったため、美味しかったアプリコットを購入した。
他にも選択肢はあったが、なぜマテウスを選んだのかはよく覚えていない。ただ、マテウスにはKosher認証の製品もある。Golders Greenのベーカリーで毎週のように見ていたKosherの文字に、無意識に手が伸びたのかもしれない。


写真は寮生活中に友人たちと飲んだお酒たちである。
珍しいお酒を前に、学友たちと「これは何だ?」と盛り上がり、果実の香りが部屋に広がり、片っ端から空になっていったので、半分ほど味わった後、緊急避難した。カクテルという文化を全く知らなかったため、みんな寮のIKEA製のマグカップやタンブラーでストレートで味わった。
UNICUMは残念ながら酔狂な香港人に一気飲みされたため、開封5分で空になった。

この旅をきっかけに、プラハではビール、アブサン、ベヘロフカ、プラム蒸溜酒のショット(後にこれがスリヴォヴィツェであることを知った。R.JELÍNEKだったかは不明。)を楽しんだ。ワルシャワはビールともちろんウォッカ。ハンブルクはビール、イェーガーマイスター(当時イェーガーボムはクラブシーンで大人気のカクテルだった。)とシュナップス。
成人するとヨーロッパはまた別の楽しさがあった。
お酒が如何にヨーロッパの文化と深く結びついているかがよく分かる。

ノートの表紙
思い出として残しておくために、旅の記録を綴っていたノートにボトルのラベルを剥がして貼っていた。記録しておかないと、二度と日本で出会うことは無いだろうと当時は思っていた。
このきっかけを作ってくれたお酒への思い入れの強さから、表紙にはUNICUMとMatheusのラベルを貼った。


もともと僕は、ひとつの専門を掘り下げるより、分野を横断して世界がどうできているのかを知ることに惹かれていた。リベラルアーツの学部で、経済、宗教、歴史、社会と片っ端から学んだが、一際面白かったのがデザインだった。
人の生活や社会を観察し、読み取ったものを自分の手で形にする。その行為に抽象的な憧れがあった。
そう考えると、歴史にも経済にも人の暮らしにも深く根を張っているお酒に惹かれたのは、自然なことだったのかもしれない。

パリンカではなく、パーリンカ 
新たな知見を広げて日本に帰国し数カ月がたった時、フランスに留学していた部活の仲間とアブサンを飲みにいくことになった。当時は情報もあまり無かった為、著名な恵比寿の某バーにてアブサンを楽しむことにした。
初めて日本のオーセンティックバーという場所で酒を飲んだ。もちろん学生には少し高級だったため、1杯を噛み締めながら味わった。

その後、Ben Fiddichというところでもアブサンがある事を知り行ってみた。アブサンだけでなく、キナ・クレメンティも頂いた。まだまだ知らないお酒ばかりだということを知った。
卒業後、デザイン会社のnendoで働きながら、久しぶりにBen Fiddichに行ってみると、満席で入れず同ビル2階のBar B&Fを案内された。
席について、店内を見渡すとPálinkaと書かれたパネルがドア上部に飾ってあった。いろんな記憶が蘇り、パリンカが日本でも飲めることを知った。

そして店主に「パーリンカ知ってるんですか!」と話しかけられた。その時、パリンカではなくパーリンカということを知った。そしてその店主こそ松沢だった。
この一言がなければ、パーリンカは自分にとって特別なお酒になることは無かっただろう。
この偶然の再会と、Bar B&Fが織りなす空間の楽しさにすっかりハマってしまった僕は、その後も彼のお酒を飲みに西新宿へ通っていた。
バーがこんなに楽しい場所ということは彼が教えてくれた。
また、ふわっとした知識しかなかったヨーロッパのフルーツの蒸溜酒について体系的に深く教えてくれたのも彼だった。
そこからの話は彼が書いてくれている。
→独立の具体的な話

2000年前のポンペイにもカウンターがあった。人が集まり、酒を飲み、話をする場所は、形を変えながら続いていく。Bar Pálinkaも、そういう場所のひとつでありたいと思っている。

日の当たらない酒を、日本へ 
世界のお酒業界の主流から外れながらも、多くの国で何世紀も作られてきたニッチなお酒。
Pálinka、Rakija、Țuică、Kirsch、Horincă、Slivovice、Meruňkovice、Eau-de-vieなど土地や原料の果実でカテゴリー名が変わり、全容が掴めない。
便宜上の「フルーツブランデー」も、EUではブランデーがブドウ原料に限られるため認められず、法的にはFruit Spiritとなる。
逆にアメリカでは果実名+Brandyと表記しないといけない、ねじれた規制(SlivovitzとKirschwasserはBrandy表記がなくても良い)。
とっつきにくい代わりに、一度知ると驚く多様性と生産者・フルーツごとの味わい、奥深さ。

パーリンカの生産者は自社栽培や農家から大量の国産フルーツを仕入れ、昔から変わらない製法で作り続けている。小規模な造り手が大半で、ここ数十年でハンガリーの法整備とともに市場が形成されてきた。その間に多くの蒸溜所が失敗し、市場から消え、新たな造り手が生まれ、多くの商品を生み出し、業界の代謝を促してきた。
今年は渇水が酷かったとのことで、来年のフルーツの収穫高を生産者とともに憂いている。
果実という原料が持つ繊細さが、近年の気候変動の影響を多く受けてしまうことは想像に難くない。

Csalló蒸溜所の畑

2014年にブダペストで飲んだあの1杯も、日本ではほとんど知られていなかった。
造り手を訪ね、話を聞き、その文化ごと日本に持ってくる。そんなチャレンジをやってみようと8年前の僕たちは話に花を咲かせた。
当時二十歳の自分に、「12年後、このパーリンカを日本で売っているよ」と言っても、たぶん信じないだろう。
人や場所の縁が紡いだ思い入れのある品を日本に紹介できることをとても嬉しく思う。


ここで松沢に筆を戻す。


 

これはBar Pálinka開業物語の前日譚-菅原目線-
そもそも松沢と菅原の出会いはパーリンカがきっかけだった。
学生時代にハンガリーを訪れた菅原が買って飲んだパーリンカ、Matheus。
もし菅原がハンガリーでパーリンカを飲んでいなかったら弊社は、Bar Pálinkaは存在していなかったかもしれない。そんな、原点のパーリンカであるMatheus。

念願叶って、日本で販売開始となる。

そしてこのMatheus蒸溜所の責任者であるバーバラ氏はあのMárton és Lányai蒸溜所の娘さん。出会ったのは2023年の蒸溜所訪問時。あのマールトン蒸溜所だ。2024年の5周年記念オリジナルパーリンカでお世話になった、あの。(うおおおおおお!!って叫びたくなるくらい激アツ展開だと思う)

 

Márton és Lányai蒸溜所の製品に初めて触れたのは2017年。ハンガリー語が分かる方はお気付きだろう。Lányはハンガリー語で「娘」という意味。バーバラ氏は蒸溜所の名前に、いました。ずっと。ずっと前から出会っていた気分。

 

 

今回、Matheusの販売前にハンガリーを訪れバーバラ氏に詳細を伺った。2026年9月末のことだ。3泊5日という例によって弾丸出張。前回は1泊3日だったからかなり余裕があるとも言える。

Matheus蒸溜所ができたのは2010年。会社自体は2008年にあったという。
使用しているフルーツは全て蒸溜所の半径10km圏内にあるローカルのもの。地産地消の考えもあるが、どちらかというと輸送コストによる部分が大きいそうだ。
蒸溜器はドイツのChristian Carl製、単式蒸溜器+多段精留塔(シュナップスやパーリンカなど、フルーツブランデーでよく使われるタイプ)。
2回蒸溜したのち、度数85%〜90%の原酒に少しずつ加水を2週間かけて5%ずつ落としていく。一気に加水をしてしまうと香りが飛んでしまうので時間をかけて加水をするのが重要なようだ。コニャックにもよく見られる手法。


Matheusを創業したのはMáté Csaba(マーテー・チャバ)氏。ブランド名のMatheusはMáté家の名前に由来している。
蒸溜所がある場所には、かつてCsaba氏の曾祖父が営んでいた蒸溜所があったそうだ。2010年の蒸溜所建設は、途絶えていた家族の蒸溜を同じ土地で復活させたものだという。2010年にバーバラ氏の父、マールトン氏が蒸溜所を引き継ぎ、現在に至る。

Csaba氏は熟成パーリンカの先駆けだったという。ハンガリアンオークで最低6ヶ月。熟成させる分だけ在庫を寝かせることになるため、熟成させないパーリンカに比べて資金繰りは厳しくなる。それでもずっと熟成にこだわってきたそうだ。


このCsaba氏の経歴が凄まじいのでぜひ紹介したい。(このブログを執筆しながら再度リサーチを重ねて気付いた新事実に興奮を隠しきれず、直前の文脈を無視してここにねじ込ませていただく)

 

Máté Csaba氏は1955年、ハンガリー北東部のPanyolaに生まれた。

Panyolaといえば、パーリンカを知っている人なら聞き覚えがあるかもしれない。そう、名前が可愛い蒸溜所ランキング(俺調べ)上位の「Panyolai」で知られるSzabolcs-Szatmár-Bereg県にある小さな村だ。パーリンカの生産が有名な地域というのは総じて果実栽培も盛んである。

しかし、Csaba氏は最初からパーリンカの世界にいた人ではない。

高校では数学と音楽を学び、ブダペストのEötvös Loránd大学(ELTE)でProgramtervező Matematikus、直訳すると「プログラム設計数学者」とでもいうべき学位を取得。その後Budapesti Műszaki Egyetem(現在のBME)では電気工学も修めている。

そして1990年、ソフトウェア開発の事業を始めた。

Csaba氏の会社が開発していたのは、主に貿易業務に使われるソフトウェアだった。

このソフトウェアというのがハンガリーの貿易の歴史を変えたと言っても過言ではない。当時の記事には、彼らの作ったシステムがハンガリーの対外貿易を「ほとんど革命的に変えた」とまで書かれている。

一部の企業が試験的に使っていたというレベルではない。最盛期には数百社で利用されていたという。

今でこそ、商品の受発注、在庫管理、輸出入に必要な書類、取引先との情報共有などをコンピューター上で処理することは当たり前になっているが、Csaba氏がこの事業を始めたのは1990年。

まだインターネットすら一般に普及する前で、しかもハンガリーは社会主義体制から市場経済へと移行し始めた、まさにその激動の時代だ。

国の経済システムそのものが大きく変わり、企業が世界との商取引を始めていく。

その激動の時代に、企業が実際に「海外と商売をする」ための仕組みをソフトウェアとして作り、それが数百社に導入された。

単なる業務効率化ソフトを作った、というレベルの話ではない。新しい時代のハンガリー企業が世界と商売をするためのインフラの一部を作った。

偉人すぎる……

時代が変わり、顧客だったハンガリー企業が倒産したり、外国企業が市場から撤退したりしたことで、Csaba氏は新しい事業を探すことになる。

それがパーリンカだった。
Csaba氏がパーリンカの製造を始めたきっかけなったのは、彼のもう一つの趣味の古書収集だった。

Csaba氏がオークションで入手した古い資料の中に、1857年に再版されたフランシスコ会に関する文献があったという。そこにはBeregszász周辺(現在のハンガリーとウクライナの国境あたり)で、16〜17世紀のフランシスコ会修道士たちが果実の蒸溜酒に薬草を漬け込み、その抽出物を利用していたという記録が残されていたそう。

さらにその記録の中でCsaba氏が注目したのが、蒸溜に使う果実についてだった。

「落ちた果実ではなく、樹上で完全に熟した果実を使う。」

今でこそ「原材料となる良質な果実を厳選する」という原料へのこだわりは、上質なパーリンカを造る上でスタンダードになっているが、長い間パーリンカには食用にならない果実や余剰果実を無駄にしないための蒸溜酒という側面もあった。なので地面に落ちたものや余剰在庫を使っていた(今でもそういう造り方をするところもあるし、そういったものが上質ではないという意味ではないことは明記しておきたい)。

その習慣に対してCsaba氏が目指したのは、最初から良いパーリンカを作るために良質な完熟果実を選ぶことだった。ここからMatheusが始まる。

ちなみにMatheusというブランド名は、創業者であるMátéのラテン語表記。つまり彼自身の名前だ。


Matheusの誕生
最初の商品を発表したのは2007年5月、Budapestのパーリンカフェスティバル。
当初は5〜6種類、それぞれ50〜200Lほどという非常に小さな規模から始まった。
広告らしい広告もしていなかったそうだが、10月には用意していた商品が全て売り切れたという。

翌2008年からハンガリー国内市場へ本格的に進出。
そして、この頃には現在のMatheusにも通じる酒造りの思想が既に出来上がっていた。

まずは先ほどの完熟した良質な果実を使うこと。
核果類では種を取り除き、蒸溜ではヘッドカットはもちろん、中溜を厳しく選別する。
そして50〜60%という、パーリンカとしてもかなり高いアルコール度数。
さらにMatheusを特徴づけるのが、桑の木で作られた樽での熟成だった。

ウイスキーやコニャックで一般的なオークではなく、Mulberry、ハンガリー語ではEperfa(Faeperとも)と呼ばれる桑の木である。

桑樽自体はハンガリーで古くからパーリンカの熟成に使われてきたものだが、Csaba氏はその伝統に改めて注目し、Erdőbényeの樽職人を探し出して桑樽を製作させた。

なぜパーリンカを樽で熟成させるのか
以前樽熟成のパーリンカについての個人的な思いを綴ったことがあるので時間がある方はこちらも併せて目を通していただきたい。

木樽の中では、木材から様々な成分が溶出するだけではなく、樽を介した緩やかな酸化や揮発などが同時に進んでいく。

蒸溜直後の荒々しいアルコール感が徐々に丸くなり、酒全体が柔らかく、調和していく。

しかしパーリンカの場合、ウイスキーのように樽そのものの要素を強く感じさせてしまうと、主役である果実の香りを覆ってしまう。

あくまで主役は果実だ。

桑樽は、果実のキャラクターを残しながら酒質を柔らかくし、熟成による複雑さを加えることができる。

そして、もう一つ分かりやすい変化が色。無色透明だったパーリンカは桑の木から成分を取り込み、徐々に黄金色からブロンズ色へ変化していく。

Matheus自身も、桑樽熟成によってブロンズ色、果実香、柔らかくシルキーな味わいが生まれると説明している。実際にMatheusのClassicシリーズを見ると、一般的な無色透明のパーリンカとは明らかに色が違う。あの色は着色したものではなく、桑樽で過ごした時間によって生まれたものだ。区分で言うとÉrlelt Pálinka。

桑樽熟成の特徴として「タンニンが強く出ない」「樽の香りが強くでない」「そのため原材料の果実感を維持できる」が挙げられる。「樽の味を付ける」のではなく、果実感を残したまま酒を丸くする。これがMatheusを含めた樽熟成のパーリンカにおける重要な部分だと思う。

そして先ほども少し触れたが樽に入れている間は商品として売ることができない。熟成中には蒸発によるロスも発生する。天使の分け前ってやつ。時間もコストもかかる。資金繰りは厳しいものとなる。

それでも熟成させる。
Matheusは創業当初から、かなり変わったパーリンカだったようだ。


創業からわずか2年で世界へ
そして、世界はMatheusの信念に早い段階で気付き始める。
2008年にはハンガリー国内の蒸溜酒コンペティションHunDesztで金賞を獲得。

翌2009年にはオーストリアで開催される国際蒸溜酒コンペティションDestillataに初出場する。この年は13か国から188の蒸溜所が参加。

そのうちDestillataに初参加した49の蒸溜所を対象に、最も高い評価を得た蒸溜所に与えられる「Newcomer des Jahres」をMatheus Pálinkaházが受賞した。

さらに個別の出品アイテムでも、
金賞1、銀賞5、銅賞4。

パーリンカをほとんど飲んでいなかった数学者がパーリンカ造りを始めて数年。
Matheusとして商品を世に出してから、わずか2年ほどでの出来事だ。

翌2010年のDestillataでも銀賞4、銅賞8を獲得。
さらに同年末のWorld Spiritsでは金賞4、銀賞11、Master-Classという結果を残している。

創業直後の数年間だけを見ても、かなり異常な勢いである。

 



ここで改めて彼の経歴を西暦と並べてみる。

1955年
Panyolaに生まれる。

大学時代
ELTEでプログラム設計数学を学び、BMEでは電気工学を修める。

1990年
ソフトウェア開発事業を開始。
貿易業務用ソフトウェアを開発し、後に数百社で利用される。
ハンガリーの貿易業が大発展する。

2000年代前半
事業環境の変化から新しい分野を模索。
古書収集をきっかけに、果実蒸溜酒の歴史を調べ始める。

2007年5月
BudapestのPálinkaフェスティバルでMatheusを初披露。
同年10月には完売。
この時のラインナップは度数50%,60%のみ。

2008年
ハンガリー国内市場へ本格参入。HunDesztで金賞を獲得。

2009年
Destillataに初出場。Newcomer des Jahresを受賞。
金賞1、銀賞5、銅賞4。
度数44%がラインナップに追加。

2010年
Destillataで銀賞4、銅賞8を獲得。
World Spiritsで金賞4、銀賞11、Master-Classの評価を獲得。
徐々に度数40%のパーリンカも追加。

同時期、ÖköritófülpösにMatheus蒸溜所を建設。

なんとこの土地にはかつてCsaba氏の曾祖父、Kende Zsigmond男爵が所有する蒸溜所があったという。途絶えていた一族の蒸溜の歴史が、約100年を経て同じ土地で復活したのだ。こういうエピソードが遠い異国の地で語り継がれているの、ロマンがありすぎる。

2011年Ököritófülpös自治体議会の議事録にはCsaba氏本人が登場したという記録がある。
彼の提案は「Szatmári Körte(サトマールの洋梨)」と「Szatmári Szilva(サトマールのプラム)」を地域ブランド化し、それを使用したパーリンカの原産地保護を目指す構想だ。
よく耳にする「テロワール」の概念をパーリンカの世界に持ち込もうとしていたのだと思う。

2010〜2012年頃
Márton János氏とその家族へMatheusの経営が引き継がれていく。

 


 

 

Csaba氏の信念として、ハンガリーの伝統文化として、「度数50〜60%こそがパーリンカ」という思想が見えてくる。確かに「度数が高いものこそが正義!」といった主張はハンガリーの田舎に行くとよく耳にする。「度数49%以下は四捨五入したらゼロ!」みたいなことを自然と言ってくる。(確かに度数が高い方が美味いが……)
実際に菅原が現地で飲んだ”ハジマリのパーリンカ”は50%と表記してある。当時のCsaba氏への取材記事にはドイツやオーストリアのシュナップスは30〜40%という例を対比に出していることからも、差別化を図る上で重要な要素の一つとして捉えていることが読み取れる。

そして現代の消費者のニーズに合わせたモダンバージョン、それが44%、40%のラインナップとなる。先ほどの取材記事の記述と彼の経歴を照らし合わせると、この時点で海外への輸出を視野に入れていたのではないかと思われる。

今回販売開始をするのはこの44%のラインナップだ。

現在のMatheusを飲んでみると、完熟した果実へのこだわり、そして桑樽熟成、現代ナイズといったCsaba氏の思想が、形を変えながら今も残っている。


今回、Csaba氏について調べていて個人的に一番面白かった、いや嬉しかったのは彼がパーリンカ事業以前に貿易関連の事業をしていて、偉業を成していたことだった。

ハンガリーの対外貿易を支えるソフトウェアを作り、多くの企業に使われるシステムを残した人が、その後パーリンカの世界へ入りMatheusを作った。

そのMatheusを、今度は我々がハンガリーから日本へ輸入する。

2014年、菅原がブダペストの空港で偶然手に取った1本から始まり、松沢と出会い、合同会社oooooを立ち上げ、Bar Pálinkaを開業し、酒類輸入の免許を取り、蒸溜所を訪ね、12年かけてようやくここまで来た。

 


Ököritófülpösを流れるサモシュ川

 


 

もちろんCsaba氏が今の我々を知っていたわけではない。

それでも、かつて貿易の世界で実績を残し、その後Matheusというパーリンカを作った人の意思を受け継いで、今度は我々がこの酒をハンガリーから日本へ運ぶことになった。

なんとも不思議な巡り合わせだと思う。


その続きを自分たちが担えることを、心から誇りに思う。

 

 


商品名:Matheus Pálinka Alma
フルーツ:リンゴ(ジョナサン、ジョナゴールド、ゴールデン、アイデレッド)
容量:500ml
アルコール度数:44%
熟成年数:1年
樽材:桑
販売日時:2026年10月23日金曜日 19:00~
購入リンクはこちら


※商品ページは2026年10月23日19:00より公開いたします。


 


 

商品名:Matheus Pálinka Fürtös Meggy
フルーツ:サワーチェリー
容量:500ml
アルコール度数:44%
熟成年数:最低6ヶ月
樽材:桑
販売日時:2026年10月23日金曜日 19:00~
購入リンクはこちら


※商品ページは2026年10月23日19:00より公開いたします。


 


商品名:Matheus Pálinka Cseresznye
フルーツ:チェリー
容量:500ml
アルコール度数:44%
熟成年数:最低6ヶ月
樽材:桑
販売日時:2026年10月23日金曜日 19:00~
購入リンクはこちら

※商品ページは2026年10月23日19:00より公開いたします。

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